ぷえ〜

日々の思い出や考え事、本、数学について書きます。

多様と普遍のあいだ

 ここ数年で特に、「多様性」がもてはやされ、同調されるようになっている。人についての、何らかしらの性質についての「多様性」だ。だけれど、そこに多様性なんて99%無いと言っていいだろう。みんなが「多様性」を推せば推すほど、それ自体一つのカテゴリになってしまって、「多様性」を認めない人を認めなくなる。ややこしい。団結してしまう。鬼は外、福は内になるのだ。集団の団結力の基礎として、外にヘイトを向ける。これでは全くもって多様性などでなく、単に二つに分かれて日々の鬱憤を投げ合うドッチボールだ。第一、多様性が解ってるなら、いちいち推す必要がそんなにない。そもそもその視点なら、同調するのも変だ。これは一つ前のブログも絡む。多様性は、会う人一人一人個別に、毎回違いを認めて受け入れることだと思う(これはとても難しい)。なので少なくとも、「多様性」の旗印の元で違いを認めないという事態には、反省の必要があるはずだ。

 

 かと言って、真反対の、全部同じで普遍だというのも気持ちの悪い幻想に過ぎない。

 

たぶん、言葉の問題になる。一人一人は全くもって違うけれど、それじゃあ会話なんて出来っこない。だから同じ言葉で、違いを話す。「多様性」と言うだけでは、一人一人の違いを表現できない。一語で語れるはずがない。そこに偏りがある。言葉(同じ)と生活(違い)は切っても切れない。言葉に変にムキになるのは、結局寂しいのだろうと思う。

 

こうなると、いい塩梅を求めるしかないな、となる。これが一番の肝だと思うが、今実現できるようなモデルは思いついていない。家でもインターネットでもない所にあるはずだ。こんなようなことが考えられた本を読んでからになるだろう。