ぷえ〜

日々の思い出や考え事、本、数学について書きます。

自分の記憶が頼りにならない (記憶について 1)

 今日のお昼頃、お母さんに「また綿棒を買うのを忘れたから買ってきてほしい」と言われたことを、午後10時になって思い出した。こんな風に綿棒を買うのを忘れたのは今日で最初ではなくて、かれこれ2週間くらい続いている。けれど、それで困るようなことは一度もないはずだ。これがもし別の、仕事に関わったりすることなら一大事になる。でも、そういうことはだいたい忘れない。ドキドキしたりついつい考えてしまって、頭と体に密着してくる。綿棒はその点、いつも何処か遠くに行ってしまって、見えない。

 困る、困らないとか感覚と同じく、記憶は今に酷く依存している。シャワーで頭を洗うときに限って、とても嫌な記憶が蘇ることが頻繁にあるとか、そういうことだ。だからいくらか、結構都合よく改良されて出てくる。その時の感覚とか気分に。それが積み重なって、記憶が古くなればなるほど都合がいいだろう。耳くそについても、僕のは湿気を含むので、ほっとけば粘りついて少し聴こえづらくなるのに、一度忘れたことで「都合よく」どうでもいいことだと思うようになっている。

 以上を踏まえて周りを見渡すと、恐ろしい。友人との会話で記憶を参照するとき、すべて一致していたり、忘れていて、誰かの「絶対に〇〇だったよ」というのにつられて、自分の記憶を正したり、誰も覚えていなかったりするのは、すべて一部の人の都合通りかもしれない。最早故意であるかどうかは関係ない。こんな不安定なものが、一人単位から、大きくなれば共同幻想まであるかもしれない。

 

 この記事は、ただ今考えつくようなことをそのまま打っているだけだけれど、綿棒のせいで考えたいと思うようになってきたので、これからも不定期で書きたい。本も参照しながら。

 記憶は今のところよく解らない。でも、記憶の有無によって、何をして、何をどういうふうに考えるのか変わることくらい記憶が重要であるのは解る。いつか、自分の忘れっぽさから来る不安と上手く付き合っていきたい。